* 山

富士山山開き

今年も半分終わってしまいました。ハァ~

そして、今日7月1日は、富士山山開きでした。
今年も残雪が多いために、登山道の全面解除が出来なかったみたいです。

富士宮口は、六合目~八合目まで、
御殿場口は、新五合目~六合目まで、
須走口は、新五合目までが、通行解除だそうですね。

富士吉田口(山梨県側)は、どうだったのかしら…?

そうそう、富士山と言えば、私はまだ見ていませんが、
田部井淳子さんの最近の著書に、
『日本人なら富士山に登ろう! ~今年こそ富士山に登ろう~』(アスキー新書 155)
というのがあります…

私、田部井さんの広報担当じゃないですよ…

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あの人に会いたい

昨夜、「あの人に会いたい」という番組の再放送で、
冒険家・植村直己さんの懐かしい笑顔に再会できました。

あの話すときの、夢みる少年のような眼差しと、はにかんだような口元…
誰かに似ている…辻井伸行さんでした。

今まで、いつも、辻井伸行さんの可愛らしい笑顔を見る度に、
“どこかで見たような…”と思っていましたが、
ようやく、ゆうべ、植村直己さんだったことに気付いたのです。

植村直己さんが世界初のマッキンレー厳冬期単独登頂に成功された後に、
(ちょうど43回目のお誕生日でした。)消息を絶ってしまってから、
もう、四半世紀以上も経っただなんて信じられません。

今もあなたは、青年のまま、マッキンレーのどこかで眠っているのですね。
植村さん、あなたはヒラリー卿に「冒険とは生きて還ること…」と
恥ずかしそうに話されていたのに、どうして未だに還ってこないのですか…?

優しくてシャイでピュアな植村さんは、山好きの私の憧れの人だったのに!!
あなたの『青春を山に賭けて』は、私の本棚に大切に仕舞ってありますからね。

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富士山

昨夜、NHKローカルで、「富士山 わたしだけの一枚」という富士山に魅せられ、
写真を撮り続けているアマチュア写真家の番組を放送していましたが、
40年前からファンだった山岳写真家の白旗史朗さんが出演されていました。

富士山は日本人にとって特別の山…
蝦夷富士(羊蹄山)、津軽富士(岩木山)、榛名富士(榛名山)、ほうき富士(大山)、
この他にも、日本には富士が付く山がたくさんありますよね。

国内どころか、海外にも日本人が名付けた、チリ富士(オソルノ山)、
カムチャッツカ富士(クリュチェフスカヤ山)、タコマ富士(レーニア山)などが
存在するのですから…

私は、特別、富士山に魅せられているという訳でもないのですが、
確かに、雪を戴いたの富士山には、浄化作用があるように感じます。

さすがに自宅からは見えませんが、
少し歩いただけで富士山が眺められる偶然には感謝してます。

せっかく見える所に住んでいるのですから、
私も常々、「わたしだけの一枚」を撮りたいと思って挑戦はしているのですが、
カメラも腕もお粗末で、情けない結果の連続なんです。

ところで、富士山には、「赤富士」と「紅富士」があって、以前「美の壺」では、
“赤富士は、朝日や夕日が雪を照らす”、
“紅富士は、雪のない季節に山肌が赤く染まる”
と言ってましたが、これにも諸説あるようですね。

太宰治は、『富嶽百景』で、
“…低い。裾のひろがつてゐる割に、低い。
あれくらゐの裾を持つてゐる山ならば、少くとも、もう1,5倍、高くなければいけない。”
と書いていますが、そう言われると、そんな気もするから不思議です。

余談ですが、
時々私は、ライブカメラで富士山を鑑賞しています。
(私は御殿場から見た富士山が好き…)

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『女たちの山 シシャパンマに挑んだ女子隊9人の決算』…(3)

『女たちの山 シシャパンマに挑んだ女子隊9人の決算』は、
隊員が実際に書いた『アンナプルナ 女の戦い7577m』や、
『私たちのエベレスト 女性初登頂の全記録』
田部井淳子さんの、
『エベレストママさん 山登り半世紀』『エプロンはずして夢の山』
などの多くの著書や、
北村節子さんの『ピッケルと口紅』といった本のような臨場感が今一つで、
著者の主観が入り過ぎていたことで、
逆に、説得力にも欠けていたように感じました。

文中に、「中国登山協会から送られてきた、登山に伴う協力作業の値段表」
というのが書かれていましたが、そのあまりの高額には、驚いてしまいました。
(このことは、『ピッケルと口紅』にもあって、
北村さんたちは経費削減のために、中国まで交渉に行ったとのことでした。)

要約すると、
「内陸輸送には、解放軍のトラックをチャーターする。
車自体のチャーター料の他に、走行距離に比例した使用料とガソリン代、
運転手の人件費、雇った協力員(シェルパに相当)の日当と食費、
その人達に料理するコックの日当と食費、
彼らを監督する連絡官と、その助手(通訳)の日当と食費、
彼らは漢人なのでコックも別、そのコックの日当と食費
何かあった時のために、BCにジープを常駐させるが、
たとえ走らなくても、チャーター代とその運転手の日当と食費、
荷揚げに使うヤクは、1日に4000元、
(ちなみに、北京等の都市部での勤労者の月収は、50~60元)
ヤクを扱うヤク使いの日当と食費…

協力員の1日の日当は22元(当時の日本円で、約3,300円)で、食費も同額
(チベットに赴任している医者の月収が67元(約1万円))

また、チベットにいるだけで、1日1人、日本円で、2万~4万円の滞在費が取られ、
浴室の湯が出ないのに、ホテルの宿泊費が1泊35,000円、
当然、外国人向けの料金だが、協力員が一緒に宿泊した場合、
協力員の分も、外国人と同じ宿泊費が請求される…」

金額は分かりませんが、勿論、入山料も必要です。
日本隊(外国隊)が払う「日当+食費」は、国の収入になるのでしょうが、
協力員たちの、実際の日当や食費はどの程度だったのか気になりました。

これらは、全て30年位前のことなのですが、
現在は、どうなのでしょう…?

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『女たちの山 シシャパンマに挑んだ女子隊9人の決算』…(2)

よほど後味が悪かったのか、それとも私が読んでないだけなのか、
田部井淳子さんの著書に、シシャパンマのことは、
書かれていなかったのですが、
北村節子さんの『ピッケルと口紅』には、その一部始終が書かれてありました。

本のタイトルは伏せてありましたが、
落合誓子さんの『女たちの山 シシャパンマに挑んだ女子隊9人の決算』
にも触れられてましたが、好印象ではなかったようでした。
あんなふうに書かれたのですから、当然でしょう。

ただ、一つのエピソードも、立場が替わると、
全くニュアンスが違ってしまうところが興味深かったです。

ドクター(加藤淑子さん)への取材を元に書かれたのでしょうが、
最終アタッカーの田部井隊長と北村さんが(高地協力員もいますが)
第5キャンプ(7350m)で、ベースキャンプのドクターとの体調報告の様子が
書かれてありました。

隊長は異常なしでしたが、北村さんの方は、命の綱である食料は忘れるし、
「…脈拍も異常で、心臓をギュッとわしづかみにされたような感じ…」
ということで、ドクターストップとなったとありました。

当然、北村さんは不満…
「登頂成功が目的ではなく、全員、無事帰国すること一番大事」
がモットーの田部井隊長が、
「節ちゃに何かがあったら、私は悔やんでも悔やみきれない」
と言って説得し、結果的に隊長だけ(と高所協力員)が登頂に成功。
とありました。

その一件から、
「北村さんの高所障害より、自分達の方が軽症なのに…」
「2人がアタッカーになることは最初から決めていたのでは…」
「自分達は利用されたのでは…」
と、隊長と北村さんに対し、隊員たちの不満や批判が増すことに…

でも、北村さんの『ピッケルと口紅』では、ドクターに
「“やっぱり高所だね。心臓が苦しかったよ…”と言ってしまったら、
それが命取りになり、ドクターストップがかかってしまった。
悪い冗談かと思った…それだけの根拠でドクターストップをかけるなんて」
などと、不満な書き方でした。

どちらが正しいのか、また、意図的かどうかも分かりませんが、
言葉の選び方次第で、随分印象が変わるものです。

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『女たちの山 シシャパンマに挑んだ女子隊9人の決算』

20091124
『女たちの山 シシャパンマに挑んだ女子隊9人の決算』 落合誓子/著
山と渓谷社 山渓ノンフィクションブックス

『女たちの山 シシャパンマに挑んだ女子隊9人の決算』は、
絶版のうえ、図書館にもなかったので、ネットで中古本を買ったのですが、
読めば読むほど、重苦しい気分になってしまいました。

著者の奥村誓子さんは登山隊とは関係のないライターで、
この本は、隊長の田部井淳子さん初め隊員9人と、
事情により参加を取り止めた2人から取材したルポルタージュです。

日本女子登攀クラブの田部井淳子さんが、
エヴェレスト登頂に成功したのは、1975年のでしたが、
田部井さんを隊長とした、シシャパンマ(別名ゴサインタン 中国 8,027m)登山は、
エベレスト登頂の6年後の、1981年のことでした。

(ちなみに、その間の田部井さんの登山(海外)は、
ヤラピーク(5,732m ネパール 1977年)、モンブラン(4,807m フランス 1979年)、
キリマンジャロ(5,895m タンザニア 1981年)です。)

隊長の田部井淳子さん、副隊長の北村節子さん、三原洋子さん、
平島照代さん、永沼雅子さんの5人はエヴェレスト女子登山隊からの仲間で、
最終的には、永沼さんは健康面、平島さんは休暇が取れないという理由から、
不参加となりましたが、
エヴェレスト組の隊員たちと、その他の隊員6人の違いは歴然。

エヴェレスト組の努力や冷静さ緻密さに比べ、
ほかの人たちは小学生でも分かる些細なことまで自分で判断できないし、
男性社会では通用しない甘えや媚びも見せていました。

入山期間、天候、お金の問題を抱え、
技術、体力での差だけでなく、高所での体調と精神力、
極限状態に於いての冷静さや機転、判断力といった理性など、
何を取っても田部井さんにかなう人はいなかったことは、
隊員の誰もが認めることにも関わらず、
結果的に田部井さんだけが登頂したことが、どうしても納得できないようでした。

高所障害による肉体的精神的ダメージも、高度が下がるに従って忘れ、
「隊長は普通はBCにいるものなのに」とか、
「自分は利用されただけ」と後々まで不満を訴えて…

ライターも含め、女性というのは理性では納得していても、
感情では許せないものらしいです。

尊敬はするけれど、自分が惨めになるからか、認めたくはない。
ライター自身、田部井さんに比べての自分のダメさ加減を延々と書きながら、
そして、気さくで自然体の田部井さんを立派といいながら、
田部井さんが立派で、精神的に強いことを、同性として肯定したくないようでした。

ルポルタージュといえども、人間が書いている以上、主観的になるのは当然ですが、
元隊員が書いているのではないので、
実際に隊員が書いた『アンナプルナ 女の戦い7577m』や
『私たちのエベレスト 女性初登頂の全記録』 のような臨場感もなく、
ライターの感情や微妙なニュアンスがプラスされていたようにも思え、
ルポというより、低俗な暴露本みたいで不快になりました。

田部井さんの著書では、「シシャパンマ」については、
触れられていなかったような気がします。

男性がこの本を読んだなら、
「だから女ってイヤなんだよ~」と言うのでは…?

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『怖いもの知らずの女たち』

20091120
『怖いもの知らずの女たち』 吉永みち子/著 山と渓谷社

2003年11月の「おでんパーティ」で、
私、シャンソンを習ってみたいなあと思っているんだよね
という田部井淳子さんのひと言に、仲間たちが賛同。

「でも、どうせ習うなら、成果を披露しましょうよ…」となり、
「でも、コンサートでは、お客さんが集まらないかもしれないから、
ディナーショーにしましょう…」となりました。

「でも、食事が先だと帰られてしまうかもしれないから、
ショーを先にしよう…
それに、聴きたくない人のために、耳栓を、
見たくない人のために、アイマスクも用意しよう…」

そんなことから、勇気ある6人の女性たちは、
既に、3回も、シャンソンのコンサートを開いたのでした。

6人は、登山家の田部井さんが北村節子さんと発足させた、
働く女性の山の会「緑の女性会議」の仲間で、
田部井さんのほかの5人は、
元日本ロレックス宣伝広報担当の脇坂満智子さん、
PR会社会長の秋岡久恵さん、元タカラジェンヌの高橋利子さん、
弁護士の志賀こず江さん、セブン−イレブン・ジャパン役員の山口積恵さん。

みなさん私より年上の、凄い女性たちばかりで、
それぞれの半生が、生い立ちから詳しく綴られていました。

コンサートでの、コスチュームの三原則は
「「開ける、透ける、光る」とか…

ただ、選曲についてや、肝心のシャンソンに込めた思いなどについては、
特に、触れられていませんでした。

きっと、シャンソン自体は重要じゃなかったのでしょうね。
シャンソンが「男と女」の歌ということを、
言い出しっぺの田部井さんが知らなくて、
「こんな歌詞、私には歌えないよ」と言ったそうですから…

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『私たちのエベレスト 女性初登頂の全記録』

この本も、『アンナプルナ 女の戦い7577m』と同じように、
女子登攀クラブの田部井淳子さんと、サーダーのアン・ツェリン氏が、
エベレス登頂に成功(1975年5月16日)された時の、記録の本です。

準備から報告会に至るまでの、約5年間の記録を一冊にまとめるため、
企画、執筆、写真、イラスト、編集その他を、
「エベレスト日本女子登山隊」の隊員15人全員と、
留守本部の女性1人が手がけました。

この本は、『アンナプルナ 女の戦い7577m』より、より記録性の高く、
でも、『アンナプルナ…』ほど露骨ではないにしろ、
隊員が書いただけあって、節度ある表現での生々しい本音が、
そこかしこに、ちりばめられていて、「やっぱりね!」が、無きにしも非ずでした。

そういう意味では、祝賀ムード一辺倒の読売新聞社の写真集
『エベレスト 女の栄光~隊長さん、いま頂上です』とは大違いでした。

隊員同士の戦いについては、
田部井淳子さんの著書の『エベレストママさん~山登り半世紀』や
『エプロンはずして夢の山』などや、
北村節子さんの著書の『ピッケルと口紅』にも、書かれてあったので、
知ってはいましたが、当然ですよ、エベレストなのですから…
34年以上も昔のことですが、大和撫子たちは頑張りました。

20091108
『私たちのエベレスト 女性初登頂の全記録』
日本女子登山隊/著 読売新聞社

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『アンナプルナ 女の戦い7577m』

『アンナプルナ 女の戦い7577m』は、
1970年5月19日、田部井淳子、平川宏子の両隊員と2名のシェルパが、
アンナプルナⅢ峰(7555m)に登頂成功した時の記録です。
(田部井さんのHP、その他では7555mですが、この本では7577mに…?)

この本は、記録、写真、イラスト、日記、家族友人に宛てた手紙、その他、
全てが隊員(女子登攀クラブ)によるものですが、中には、タイトル通り、
何もここまで書かなくても…と思えるほど赤裸々に綴られていました。

そもそも、なぜ「アンナプルナⅢ峰」だったかと言えば、
目標はエベレスト、でもその前に、「ヒマラヤの7000メートル級の山を」、
ということでした。

「三人寄れば山岳会」と言われたほど、当時、多くの山岳会があったそうですが、
どこの山岳会でも、厳冬期の登攀までやる女性は少なく、
体格、体力、筋力に劣る女性が男性の登山隊に参加しても、
決してアタッカーにはなれないわけで、
女性が登頂するには、女性だけの隊を組む必要があり、
そのため、寄り合い所帯と成らざるを得ないのです。

「女性だけでヒマラヤへ行きたい……」
1969年、その言葉だけで、8つの山岳会から16人が集まり、
その日から、し烈な女の戦いが繰り広げられることに…

度重なるミーティング、トレーニング山行、登山申請、隊長の選出、
隊員の決定、役割の決定、資金調達、先発隊の出発、装備等の調達、
個人負担金と休暇の捻出、梱包作業…
漠然としか想像できなかった、それらの苦労と言ったら…

女性だけの登山隊がヒマラヤを目指すということが、いかに大変で、
資金調達にしても、男性の登山隊とは違い、スポンサーが見つからない。
「女だてらに」「女は家庭を守れ」「女で成功するはずがない」などと言われ、
結果的に、個人負担金は増えていく…

そして、約1年後の1970年2月14日、
「アンナプルナ日本女子登山隊」のメンバー9人(内、ドクター1人)が決定。
(隊長・宮崎(後の久野)英子(36歳)、副隊長・田部井淳子(30歳))

本当の戦いはBCに着いてから…でもその相手は、氷壁ではなく人間…
登頂成功の陰には、凄まじいまでもの女たちの戦いがあって、
それは帰国後までも続いたのでした。

20091104
『アンナプルナ 女の戦い7577m』 女子登攀クラブ/著 東京新聞出版局

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『夏の北アルプス あぁ絶景!雲上のアドベンチャー』の再放送

先程、田部井淳子さんのブログにお邪魔したところ、
田部井さんは、現在、ブラジルの最高峰ネブリナに登山中のようですが、
9月に放送された、
『夏の北アルプス あぁ絶景!雲上のアドベンチャー』
の再放送のお知らせがありました。

明日、11月3日)の13:0514:18(73分間)
NHK総合テレビ全国放映)です。

まだご覧でないお方、お勧めですよ~

番組の記事はこちらです。

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