* 太宰治

『燈籠』

「春は曙 ようよう白くなりゆく山ぎは少しあかりて…」
「つれづれなるままに 日ぐらし硯に向かいて…」
「祗園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
…」
「木曽路はすべて山の中である…」
「道がつづら折りになって いよいよ天城峠に近づいたと思うころ…」

有名な作品というのは、読んだことの無い人でも、
冒頭部分だけは知っているものです。
教育の力は大きい…

書き出し次第で、引き込まれることもあれば、その逆もあるでしょう。
作家にとっては腕の見せ所なのかも知れません。

『燈籠』は、
言えば言うほど、人は私を信じて呉れません。
この書き出しがあったから、最後まで読んだと言ってもいいくらい。

『燈籠』も女性の一人称で書かれていますが、この作品に限らず、
太宰作品のヒロインの多くが、どこかしら自分に似ていると思ってしまうのです。

さき子のように、売り物に手を出してしまうことは、
この先の人生でもあるとは思えませんが、性格的な共通点があるように思えて…
そう感じるのは私だけではないのでしょうが。

作品解説者の小山清は、
“私はこの作品を、なんべん繰り返し読んだことだろう。
彼(太宰治)のもとを訪ねるようになってから、あるとき彼に、
「燈籠」の少女が好きだと言ったら、彼はうなずいて、「あれは僕だよ」と言った。"
と書いています。

また太宰治の作品が、難解でも冷酷でも意地悪でもないのは、
太宰治が、
"おのれに厳しく、ひとに寛大な人だったからである。"
とも。

作家というものは、気むずかしく、自分にも人にも厳しいと勝手に思い、
太宰治もまた、人に厳しい人かと思っていましたが、
私の根拠の無い思い込みより、交流のあった小山清が正しいのは当然です。

20121115
太宰治『女生徒』(角川文庫)
収録作品
(「燈籠」「女生徒」「葉桜と魔笛」「皮膚と心」「誰も知らぬ」「きりぎりす」「千代女」
「恥」「待つ」「十二月八日」「雪の夜の話」「貨幣」「おさん」「饗応夫人」)

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『葉桜と魔笛』

このところずっと本から離れているので、短い作品を読みたくなり、
昔買った太宰治の短編集を取り出しました。

男性が描く女性像というのは、何かしら違和感を覚えることが多いのですが、
太宰治の女性像にはあまりそれがありません。
と言っても、それ程読んでいませんが…

『女生徒』や『斜陽』は元があるので必ずしも言えませんが、
『きりぎりす』も、『葉桜と魔笛』も、男性の作とは思えない心理描写なんです。

女心を知り尽くしているから…?
それとも女性的な一面があるから…?

ただ、『ヴィヨンの妻』は男性の願望でしょ…?
と、思ってしまいますが…

私も、もし『葉桜と魔笛』の姉妹の立場だったなら、
きっと同じことをするでしょうね。

20121115
太宰治『女生徒』(角川文庫)
収録作品
(「燈籠」「女生徒」「葉桜と魔笛」「皮膚と心」「誰も知らぬ」「きりぎりす」「千代女」
「恥」「待つ」「十二月八日」「雪の夜の話」「貨幣」「おさん」「饗応夫人」)
…どれも美しい短編です。「雪の夜の話」が特に好き…。

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BUNGO-日本文学シネマ 『黄金風景』

先日、TBS系列「BUNGO-日本文学シネマ」シリーズの『黄金風景』を観ました。

文芸作品の映像化には、期待を裏切られることが多く、
最近は観ないようにしていましたが、
『黄金風景』は太宰治の中でも好きな作品の一つなので観てしまいました。
(出演は向井理さん、優香さん他)

前半の少年時代は、斜陽館で撮影されていたこともあり期待は高まって…
中々良かったです。
でも、原作を読んでない人なら感動されたかも知れませんが、
雰囲気が違うようにも感じました。

のろまさが我慢ならず、いつも女中のお慶をいじめていた少年時代の「私」…
そのお慶と、思いがけず再会するはめになって、
質が悪かった少年時代の自分を思い出し、自責の念に駆られると共に、
使用人だったお慶に、現在の惨めな姿を見られたくないという虚栄心から、
再会を頑なに拒もうとする「私」…

それなのに、「親にも顔を踏まれたことはない。一生覚えてる」
と言っていたお慶は、まるで、自分自身を自慢するかのように、
夫に有ること無いこと言っては、「私」を褒めているではないか!

そのお慶の屈託の無い様子に「降参」、ちっぽけな自分を自嘲し、
まるで呪縛から解き放されたような清々しい開放感を覚える…

ドラマでは、小学生の男の子が、好きな女の子にワザと意地悪するかのように、
若くて美しいお慶に淡い恋心を抱いた少年が、いじめているようにも…

訪ねて来た際の態度も、かつて仄かに思っていた年上の女性に、
御曹司の成れの果てを見られたくないがために、
恥ずかしさと見栄から、殊更避けていたようにも取れましたが…

私の解釈が間違っていたなら、お容赦ください。

それにしても、大正初頭当時、津軽の地主に女中奉公に入る娘が、
あんなに身綺麗で垢抜けていたとは考え難い、
ドラマだから仕方ないのですが。

太宰治の映像化としては、NHKBSの「太宰治短編小説集」の方が、
原作が生きていたように思えました。

20100419
太宰治『きりぎりす』 新潮文庫
(『黄金風景』はこの本に…)

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「太宰治短編小説集」

「ミス・マープル」の録画には、すごい特典が付いてました!

種明かしは…
ミス・マープルの後の「太宰治短編小説集」という番組で、
ついでに録画しておいたのですが、思いの外面白くて、大儲けした気分でした。

「走れメロス」「女生徒」「雪の夜の話」「犯人」「きりぎりす」「トカトントン」「畜犬談」
の7作で、それぞれ30分位の実写やCG、アニメーションなどに映像化したものですが、
サスペンスドラマ風だったり、ファンタジー、狂言、講談、落語の世界だったり、
新劇風のセットだったりと、バラエティーに富んだ構成で、飽きることなく楽しめました。

「走れメロス」は、サラリーマンのメロス役に森山未來さんでした。
私は森山さんを初めて見ましたが、全力疾走やバレエシーンには仰天!
また、田中泯さんやモロ師岡さんにも感心しながらも笑えましたね。

「雪の夜の話」は読んだことがなかったのですが、
田畑智子さんの朗読がアニメーションにピッタリで、優しく心温まるお話でした。
しゅん子(私)の兄さんが、太宰治とオーバーラップしてしまいましたが…。

「畜犬談」は活字で読んだ時も、可笑しくてつい笑ってしまいましたが、
ユーモラスなアニメーションと、斉木しげるさんのとぼけたような朗読に、
頬は緩みっぱなしでした。

太宰治の作品に触れると、小説にも関わらず、
なぜか登場人物に作家自身を重ねてしまう癖があって、
“太宰治も犬を恐れていたのかしら…?”などと思ってしまうのですよ。
単純ですね…。

それにしても、内容も文体も、青空文庫で公開されているとは思えない程、
時代を感じさせないと改めて感じました。
つまり、私自身が古いということなのですが…。

映像で見るのもいいですね。
もっともっと見たいナ…

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『回想の太宰治』の文庫本

20100119
『回想の太宰治』 津島美知子/著 講談社文芸文庫

以前、図書館で借りて読んだ『回想の太宰治』は、
人文書院の初版本(1978)でしたが、
講談社文芸文庫の『回想の太宰治』には、
初版本には収録されていない複数の随筆があると知り購入しました。

津島園子さん・里子さん(津島佑子)のあとがき(「増補改訂版」1997・7)によれば、
晩年の美知子夫人は、
“~まだ、これも書いてない、あれも書いてない~”と、
自分の夫・太宰治について、読者のために記録すべきことを、
正確に記録していくことを、妻である我が身の義務と感じ続けていたそうです。

夫の歿後、多くの時間が経過したからこそ書けたのでしょうが、
妻でなければ知らない生身の太宰が綴られていて、とても興味深かったです。

作家の妻として口述筆記も務め、時にはアドバイスもしていた賢夫人だからこそ、
書ける文なのでしょうが、
(太宰治は、一度も言葉に詰まったり、言い直したりすることは無かったとか。)
聡明な美知子さんらしい、隙のない理路整然とした文章の中にも、
亡夫に寄せる思慕の情が溢れているように感じられました。

また、この文庫本には、
美知子さんの実家である甲府の石原家で撮った写真が載せられていました。

手前の中央には、美知子さんの母・くらさんが椅子に掛けていて、
その左側には神妙な面持ちの太宰治が…
二人の後には、右から冨美子(長姉)さん、美知子さん、愛子(妹)が立ち、
その後に弟の明さんが微笑みを浮かべて立っています。

太宰治の風貌が、井伏鱒二宅で写した婚礼の写真とほぼ同じなので、
その前後の写真なのかも知れません。
(写真は昭和14年(1939)に写されたもので、結婚は、昭和14年1月8日です。)

写真を見た時に私は、
“この人が(愛子さん)、桜子さん(宮﨑あおいさんが扮した)のモデルだったのね~”
と、些かミーハーになってしまった…
(友人に薦められて「純情きらり」を見ていたので…)

ついでながら、ドラマの「純情きらり」では、
笛子(寺島しのぶさん)は長女で、桜子は三女、勇太郎は長男でしたが、
美知子さんは四女で、愛子さんは五女、明さんは次男です。
(原案の津島佑子さんの小説『火の山-山猿記』でもそうです。)

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『お伽草紙』の製本

青空文庫からダウンロードしたものは、
いつも、一太郎で縦書きに直してから読んでいて、
その内の一部はプリントアウトしてあるのですが、
その中でも、処分したくない太宰治の『お伽草紙』を製本しました。
製本と言っても、背をボンドで固定し、表紙を付けただけの簡単な方法です。

本当は本式の製本や和綴じなどにも挑戦したいのですが、
不器用なゆえに自信がなくて、いつもこの方法になってしまいます。

A4用紙を縦割りの両面袋とじ印刷ですが、新聞紙のような方法ではなく、
先頭用紙は片面印刷(1ページ目)で、その裏側が2ページ目と3ページ目、
もう一度返して4ページ目を印刷する方法です。(説明が下手で御免なさい)
従って、出来上がりサイズはA5になります。
この方法ですと、製本の際、揃えて裁断する必要がありません。
フォントは12ポイント明朝体です。

表紙は、きものの余り切れをスキャナでパソコンに取り込み、
色を好みのブルーに加工して題字を入れました。
題字と著者名は隷書体ですが、古さを表すため敢えて右からに…

20100103 20100103b 20100103c 20100103d

ウ~ン…でもこれ、どう見ても、本と言うよりノートですよね…
表紙が光沢紙で、サイズが中と同じだから…

せめて板紙を芯にして渋い柄の和紙などで作れば良かったのですが、
いつもの通り有り合わせで作ったものだから…
それにしても、いい歳してお正月早々こんなことしているなんて、
暇人というか、我ながら情け無いです。

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津島美知子さん

太宰治は妻を怖がっていたという…

「私には、はじめから私の覚悟があったのです。
私は、人間太宰治と結婚したのではなくて、芸術家と結婚したのです。
彼の文学のためならば、私はあらゆる犠牲を惜しまないつもりでした。
そしてそのためには、私は自分が女であることをも否定して生きてきました」
(津島美知子・著『回想の太宰治』より)

太宰の作品に魅了され、それまでの太宰のことを承知で、
結婚した美知子さんでした。

津島美知子さん(旧姓・石原 1912(M45)/1/31~1997(H9)/2/1)は、
太宰と見合い結婚するまでは、女学校で地理と歴史の教師で、
女子寮の舎監も務めていて、元同僚によれば、
「決して感情を出さず、身繕いも常にきちんとしていて、
授業も失敗のない完璧な教師」だったとか…

美知子さんの写真といえば、井伏鱒二宅での結婚式の写真と、
三鷹の自宅の庭で二人で写したものくらいで、
どちらも、元教師らしく知的な雰囲気ですが、
長篠康一郎さんの『太宰治文学アルバム 女性篇』に載っていた
5枚の集合写真(女学生の時と教師時代)でも、他の誰よりも真面目そうでした。

口数が少なく、物静かな賢夫人だった美知子さん。
家庭を顧みない人であったとしても、
夫が、自分以外の女性と入水心中してしまうだなんて、
どれ程屈辱的で、辛く悲しかったことでしょう。
三人の幼子の行く末にも、途方に暮れたことでしょう。

「井伏さんはひどいよ。可愛げがないから、美知子と別れろというんだ。
おまえ、ひどいと思わんかね。自分が世話したくせに。それ以来、おれはね、
井伏さんを信用しないんだ」(堤重久・著『太宰治との七年間』より)
と言い、
「美知様 お前を 誰よりも 愛してゐました」と遺した太宰…
妻を怖がっていたとしても、この言葉に嘘はなかったと思います。

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『恋の蛍』…(2)

先日、読み終えました。

あとがきで作者が述べていたように、
本当の主人公は彼女の父、山崎晴弘さんのように感じました。
(父の哀れさに、「鬼の目にも涙」ティッシュが必要でした。)

晴弘さんが34歳の大正2年(1913)に、
日本初の政府認可の「お茶の水美容洋裁学校」を創設、
多い年で、年間800名の生徒を修了させ、住み込みの内弟子は80名以上…

しかし関東大震災(1923)で、その校舎も、住居も、美容院も焼失、
舶来ミシン、ドイツ製のハサミ、特注のつげの櫛、金糸銀糸で刺繍した婚礼衣装、
彼が執筆した教科書などを焼失する…

昭和2年(1927)、巨額の資金を投じ、地上2階地下2階の鉄筋校舎を再建するが、
頑強ゆえに軍部の目に留まり、昭和15年(1940)、政府に接収され、
終戦を迎えても戻ることはなかった。
(この建物は、病院として平成まで残っていたそうです。)

昭和16年(1941)、全国に巣立っていった元教え子たちの援助により、
木造校舎を再建するが、昭和20年(1945)の東京大空襲で、
校舎、住居、経営する美容院「オリンピア」など、すべて失う。
その上、GHQによって、軍国主義指導者と見なされ、
公職追放の身となってしまう。

しかも、晴弘・信子夫妻の3男2女のうち、長女・歌子は3歳で病死し、
中央大学を卒業した長男・武士(たけし)は、家業を嫌って離れて行き、
次男・年一(としいち)は、太宰治と同じ、旧制弘前高等学校を卒業し、
東京帝大の受験勉強中、髄膜炎で急死。
三男・輝三雄(きさお)は、
明治大学卒業後、入隊し戦病死、年一と同じ髄膜炎だった。

後継者として期待した次女・富栄は、10日間の結婚生活の後、未亡人となり、
美容学校再建のために、朝から深夜まで身を粉にして働き、
爪に火をともすようにして蓄えた10数万円(現在の千数百万円)を、
太宰と出逢ったばかりに、1年足らずで使い果たした挙げ句、
入水の道連れにされてしまった…
(太宰自身の飲食代や、出版関係者などの接待費、太田静子さんへの送金など)
そして、待っていたのは果てしない誹謗中傷…

もし、大好きだった次兄が亡くならなかったなら、
もし、戦争がなかったなら、
もし、夫・修一が戦死しなかったなら、
山崎富栄さんは、太宰治と出会うこともなかったでしょうし、
山野愛子さんに勝るとも劣らない美容家になっていたかもしれません。

戦争のために、財産も、名誉も、子供達も失った晴弘・信子夫妻…
自ら死を選んだ二人は、幸せだったかもしれないけれど、
残された人間は無念です。

美知子夫人も…

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『恋の蛍』

20091206
『恋の蛍 山崎富栄と太宰治』 松本侑子/著 光文社

「天彦(あまひこ)よ 雲のまがきに 言(こと)づてむ 恋の蛍は 燃えはてぬべし」
                                                             『夫木(ふぼく)和歌抄』第八巻・夏

著者は「赤毛のアン」シリーズの翻訳や関連書で有名な松本侑子さん。
松本侑子さんと太宰治…ちょっと意外な気もしました。

膨大な資料や取材の跡、関連文献からの引用や抜粋、数種類のフォントなど、
著者の苦労や意気込みが伺えます。

時代に沿って、ドキュメンタリータッチで書かれてありますが、
副題とは裏腹に、あまりにも枝葉が広がり過ぎてしまって、
肝心の山崎富栄さんへの焦点が、ぼやけてしまった感じがしました。

太宰治の入水に付き合っただけなのに、
文士たちによって、いわれなき汚名を着せられた山崎富栄さんへの、
名誉挽回を目指すとするならば、
小説ではない梶原悌子さんの『玉川上水情死行』の方に、軍配を上げたいです。

まだ読み終えてもいないのに、比較するのもなんですが…

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『玉川上水情死行 太宰治の死につきそった女』

20091115
『玉川上水情死行 太宰治の死につきそった女』 梶原悌子/著 作品社

長篠康一郎さんの『太宰治文学アルバム 女性篇』には、
他では見られないような写真が、たくさん掲載されていましたが、
中でも多かったのが、山崎富栄さんに関するものでした。

そこにあった写真の彼女は、それまで抱いていたイメージとは違って、
柔和で優しそうで、生き生きとしたとても綺麗な女性でした。

日本で最初の、美容学校創立者の令嬢で、
美容師としても洋裁師としても、技術センスともに群を抜いていて、
しかも英語が堪能で、ロシア語とフランス語も習っていて、
聖書と演劇の勉強もされていたそうです。

知性的で明るく前向き、誰にも気さくに接し、面倒見が良く優しい、
動作は機敏で、骨惜しみしないタイプだったとか…
彼女は、時代の先端を行くセレブのキャリアウーマンだったのです。

それなのに、なぜ、太宰を殺したとか、太宰を道連れにしたとか言われ、
悪女、魔女といったレッテルを貼られてしまったのか…

『玉川上水情死行~太宰治の死につきそった女~』(2002)
この本の存在を知った時、是非読みたいと思いました。

著者の梶原悌子さんは、山崎富栄さんより10歳年下で、
生前の彼女をよく知る著者が、文士たちの嘘を暴いてくれました。

美知子夫人が、毎日新聞社の取材に対し、
「山崎さんとの関係は、深いものとは思っていませんが、
今度の家出も、山崎さんから積極的に働きかけたものと思います」

と語ったことは、妻なのだから仕方ないし、当然とも思えますが…。
(実際、そう信じていたかどうかは分かりませんが~)

それにしても…
文士たちだけでなく、出版関係もこぞって、明らかに事実に反することを、
よくもこれだけ書けたものだと呆れ果ててしまいました。
被害者と言ってもいいくらいなのに…
まさに、「死人に口なし」です。

何のために?
理由の一つには、著作権を持つ美知子夫人への打算(配慮と言うより)
があったように思えますが…

田中英光は当然ですが、
太宰治が誰よりも信頼し敬愛していた豊島輿志雄のように、
「富栄さんは立派な女でした」と言って、
「太宰の死への旅立ちに最後まで付き添ってくてた」
(太宰の葬儀で)
とねぎらいを述べた人もいましたし、
捜索や検分に立ち会った野原一夫山岸外史などは他殺説を否定しました。

太宰にしても酷すぎます。
真実の愛は誰にあったのでしょう?
太田静子さんについては、利用したとしか思えませんでしたが、
他の女性に対しても、利用しただけじゃないの…?

太宰の飲食代、その他、
度々太田静子から送られてくる養育費の催促の手紙にも、
山崎富栄さんが工面し、彼女の蓄えは無くなってしまった…

「僕のために苦労することを、嬉しいと思ってくれよ」
「…ごめんね。あれ
(治子と名付けたこと)は間違いだったよ。
斜陽の子なんだから、陽子でもよかったんだね…」
「逢はない、誓ふ、ゲンマン、一生、逢はない」と誓い、
斜陽の子は愛のない子だともいい、
「これっぽちも
(と、小指の先を示して)愛情がないんだよ」と
美知子夫人を大変恐れていて、
「10年前に君と知り合っていれば良かった。」
「君と結婚する男は幸せだ」

などと言ったことは、本心からだったのでしょうか…?

↓文士たちの書いた嘘の一部。(抜粋)

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