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2014年6月

「花子とアン」

「…逃げるなんて卑怯よ」と蓮子さんに言われ、はなを呼び出したのに、
現れなかった村岡英治…カフェに連絡するべきでしょ!

英治の結婚を知らなかったはなに罪はありませんが、
「アンのゆりかご 村岡花子の生涯」を読むと、実際は違うようです。

村岡英治のモデルである村岡儆三(けいぞう)は1887年(明治20)生まれで、
1915年(大正4)江川幸と結婚しましたが、長男誕生後、幸は結核に冒され、
療養のため実家に帰り、息子の嘉男(よしお)は兄夫婦に預けていました。

不治の病とはいえ妻と息子がいる身で、しかも共にクリスチャンでありながら、
儆三とはなは道ならぬ恋に落ち、(当時はなは基督教興文協会の編集者)
出会いから、わずか半年後の1919年(大正8)10月24日に結婚…
結婚後、嘉男を引き取ることもなく…

その陰に一人の女性と小さな男の子の悲哀があることを忘れ去ってしまうほど、
結婚生活は二人にとって素晴らしい日々だった。
                          (「アンのゆりかご 村岡花子の生涯」より)


半年で約70通交わしたという恋文のうち、いくつか紹介されていましたが、
著者が村岡夫妻の孫(養女の娘)だとしても、疑問を覚えます。

もしも私なら、不倫の恋文など絶対に人目にさらされたくないはず、
絶対、元気なうちに処分するでしょう。

…何となく読む気になれなくて飛ばしました。

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「花子とアン」

この前、“既婚者なのに高価な英々辞典をプレゼントして…”
と村岡兄を非難してしまいましたが、あの時はまだ独身だったのね。
(村岡弟が“兄は3年前に結婚した…”と)

はなさんは6年間、甲府の阿母尋常小学校で教鞭を執っていましたが、
その間、出版社で働いていた醍醐さんが、
村岡兄の結婚を知らなかったのは、ちょっと意外…

きっと、情報通だった女学生時代とは違い、
脇目もふらず、仕事に没頭していたのでしょうね。

はなさんと醍醐さんが、村岡兄のことを独身と思い込んでいたことで、
彼への熱い思いが正当化されるとしても、
許せないのは、村岡兄の優柔不断な態度ですよね…

どんな事情があるにせよ、早く真実を伝えて欲しい。
(ドラマなのにヘンですね…笑)

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「花子とアン」

「銀座のカフェーで会いましょう」も目まぐるしく過ぎ去りました。

ところで、前から思っていたのですが、
村岡印刷さんて、どうしても好きになれません。

誠実じゃないというか、
既婚者なのに、高価な英英辞典をプレゼントしたこともそうですが、
意味深長な態度もしばしば。

はなから告白された時、たとえどんな事情があろうとも、
“自分は妻帯者だ”と言うべきでは。

それなのに抱きしめるなんて…
不倫は駄目です!

でも「村岡花子」、ですからね。

やっぱり甲府編が良かったわ。

★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜

先ほど知ったのですが、
本日6月21日は、村岡花子さんの121回目の誕生日だそうです。

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「花子とアン」

甲府編が終わり、明日からは東京編ですね。

修和女学校卒業の時も、後ろ髪を引かれる思いでしたが
甲府編は思いの外感動の連続だったので、もっと観ていたかった…

純朴な人たちとのお別れが何より名残惜しい…
舞台が東京に移っても、時々は甲府の人たちの顔を見せて欲しいな。

優しくて、真面目で、純粋で、一途で、素敵な朝市…
新たな出会いで幸せになって欲しいけれど、
一生報われない愛を貫くほうが朝市らしい気もします。

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昔の日本は清潔だった…5

ひびアカギレで思い出したのですが、
今年96歳になる父は、幼稚園小学校1年の時、冬になるとアカギレで歩けなくなり
お手伝いさんに乳母車で送り迎えして貰っていたそうです。

私が子供の頃も、父はよく万金膏という膏薬をちぎって火鉢であぶり、
かかとなどに貼り付けていたものでしたが、
知人からユースキンを聞いてからは、アカギレで悩まされることもなくなりました。

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昔の日本は清潔だった…4

衛生、栄養ともに良好とは言えなかった時代…
そのせいなのかは分かりませんが、
時々「ものもらい」で眼帯をしている子がいました。

私もその一人で、「ものもらい」に何度もなったために、
周りから“何でも欲しがるから…”とからかわれ、
心の中で“ねだったりしないのに…!”と抗議してました。

度々かかるうちに、眼科へ連れて行くのが面倒になったのか、
母がホウ酸水で洗って治療してくれました。

ところで、昭和30年頃の冬の風物詩でしょうか、
洟垂れで上着の袖口がカチカチになっている子や、
「しもやけ」で手の甲が腫れ上がった子、
それが割れて包帯を巻いた痛々しい姿の子もいました。

私は「しもやけ」の経験はありませんが、
ひび切れで、時々「ももの花」をつけていましたが
なぜか「しもやけ」の子が羨ましく感じていました。

…寄生虫が共存(?)していた当時、
「虫下し」も日常的な言葉でした。

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昔の日本は清潔だった…3

考えられないと言えば、害虫が発生する時期になると、
家の中の噴霧消毒が行われました。

次第に近づいて来る消毒車のエンジン音に、
子供心に言いようのない不安に襲われたものでした。

食品や食器類を片付け、すべての窓を閉め切って、
ドキドキしながら外で待っていると、うちの番になり、
玄関から白い消毒を大量に噴霧し、密閉状態にさせてから、
煙が収まった頃を見計らって家に入ると、
普段見掛けないような虫の無残な姿が目に入り、
ゾッとさせられた記憶が今も甦ります。

あるとき、ご近所のおじいさんが臥せっていたにも関わらず、
普通に噴霧消毒しているのを目の当たりにし愕然としました。

あの悪夢のような噴霧消毒…
人体に無害だったとはとても思えません。

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「花子とアン」

今日のももちゃん、
いじらしくて涙が止まりませんでした。

握手さえしない別れに、とても感動しました。

朝市くんにとって、ももちゃんは
可愛い妹でしかないのでしょうね。

朝市くん、ももちゃん、吉太郎兄やん…
片想いは悲しいけれど、
きっと美しい想い出になることでしょう。
(…徳丸さんの片思いはどうかしら…)

すべてお見通しなのに、余計な口出しをしないで見守る、
ふじさんは素晴らしいお母さんですね。

ところで、
「朝市の鈍感!」と言ったはな
視聴者の多くが、
はなの方こそ!」と思ったのでは…?

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昔の日本は清潔だった…2

DDT…
といっても何のことか分からない人も多いでしょうね。

そういう私も殺虫剤ということぐらいしか知りませんが…

幼稚園の時のこと、
先生に明日手拭いを持ってくるよう言われ
家にある中から好みの柄を選んで登園すると、
物々しい雰囲気の中、衝撃的なことが起こりました。

園児全員、頭に白い粉末を吹き掛けられたうえに
持参した手拭いで覆われたのでした。

…それはシラミ駆除のためのDDT、
昭和30年代当時、まだシラミがいる子もいたらしいのです。

園児の頭に直接DDT…
今なら考えられないですよね。

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昔の日本は清潔だった…

今はネズミやハエ、ノミなどを見掛けることはありませんが、
昔は大抵の家にネズミ捕りがあって、
お勝手の隅などに仕掛けてあったものでした。

“いない!”と思っても油断は禁物…
ハエ避けの蚊帳は卓袱台の必需品、
天井用には、ガラス製の細長いハエ捕り棒がありました。
(底に水を入れるようになっていました)

魚屋さんには、ハエ取りの粘着リボンが下げられていましたが、
うっかりすると髪に付いて大騒ぎになることもあって…
(子供だったので経験ありませんが)

また、小さい頃の私は家族で一番ノミに好かれ、
睡眠中に餌食にされたものでしたが、
翌朝、布団を畳む際に母が仇を取ってくれました。
(“娘の血を吸うとは許せない”と言いながら…)

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