「花子とアン」
「…逃げるなんて卑怯よ」と蓮子さんに言われ、はなを呼び出したのに、
現れなかった村岡英治…カフェに連絡するべきでしょ!
英治の結婚を知らなかったはなに罪はありませんが、
「アンのゆりかご 村岡花子の生涯」を読むと、実際は違うようです。
村岡英治のモデルである村岡儆三(けいぞう)は1887年(明治20)生まれで、
1915年(大正4)江川幸と結婚しましたが、長男誕生後、幸は結核に冒され、
療養のため実家に帰り、息子の嘉男(よしお)は兄夫婦に預けていました。
不治の病とはいえ妻と息子がいる身で、しかも共にクリスチャンでありながら、
儆三とはなは道ならぬ恋に落ち、(当時はなは基督教興文協会の編集者)
出会いから、わずか半年後の1919年(大正8)10月24日に結婚…
結婚後、嘉男を引き取ることもなく…
…その陰に一人の女性と小さな男の子の悲哀があることを忘れ去ってしまうほど、
結婚生活は二人にとって素晴らしい日々だった。
(「アンのゆりかご 村岡花子の生涯」より)
半年で約70通交わしたという恋文のうち、いくつか紹介されていましたが、
著者が村岡夫妻の孫(養女の娘)だとしても、疑問を覚えます。
もしも私なら、不倫の恋文など絶対に人目にさらされたくないはず、
絶対、元気なうちに処分するでしょう。
…何となく読む気になれなくて飛ばしました。
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