『死んだら何を書いてもいいわ』
『死んだら何を書いてもいいわ』
~母・萩原葉子との百八十六日~
萩原朔美/著
新潮社
中学生から別々に暮らしてきた母と息子。
不調を訴え同居して186日、入院して僅か二日目の2005年7月5日に、
母は永久の眠りにつきました。
萩原朔美さんが、『砂場の街のガリバー ~父のいない風景~』で父を書いたとき、
あとがきに、「次は『母 萩原葉子』という本を書く」と冗談のように記したところ、
「よしてよ、死んでからにして」と母は言ったそうです。
でも息子は書いてしまった…それから13年後、
母について二冊目となった『死んだら何を書いてもいいわ』は、
鎮魂の書なのでしょうか。
息子が綴る萩原葉子さんは、自らが綴る自画像とは違いました。
息子の名前に、父親は自分の名(大塚正雄)の一字の「正」を入れたかったのに、
母親は父(朔太郎)の一字を付けてしまったのです。
昭和26年に建てた梅ヶ丘の家は当時としたはモダンな洋風の家、
垣根は白い木の柵でバラをはわせてあって、玄関は家の中央、
和室は一間だけで、
応接間も、子ども部屋もフローリングで、オープンキッチンでした。
その家は、通訳と翻訳をしていた朔美さんの父・大塚正雄さんの設計でしたが、
妻が離婚を一方的に進め、夫を追い出す結果となったのです。
家族への関心を無くし執筆に集中した父・萩原朔太郎…
娘の葉子さんと若さを張り合い若い男性が好きだったという母…
あんなに批判していたのに、やはりDNAなのでしょうか。
家族と完全に別居して作家を続け、
異常に若さにこだわり、息子の配偶者にも孫にも「ようこさん」と呼ばせ、
自分は若く見えると信じ、息子の年齢に近い男性と交際していたこともあった…
『死んだら何を書いてもいいわ』の方こそ、
タイトルが『輪廻の暦』に相応しいと感じました。
亡くなる約10年前の平成6年6月6日、
母から渡された一枚のメモ。
朔美へ
(葉子の希い)
葬式なし
戒名不要
花、
香典不要
ベッドの下の棚の上の金庫に、三井生命入ってる。くらしの友へ連絡。
と書いてあったそうです。
まったく私と同じ。私もそうしたいのです。
萩原葉子さんは、「迷惑を掛けたくない」という気持ちからのようでしたが、
私はそれ以上に、儀式的なのが嫌いだからです。
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