『小綬鶏(こじゅけい)の家』
『小綬鶏(こじゅけい)の家』
~親でもなく子でもない~
萩原葉子・萩原朔美/著
集英社
『小綬鶏の家』は、萩原葉子さんと息子の萩原朔美さんが交互に綴った、
往復エッセイ集。
初めて読んだ萩原葉子さんのエッセイでしたが、
飛んだり戻ったり、またどこかに行ったりで、単純な私は付いていけなかった。
一方、男女の違いなのか、朔美さんの文はとても冷静で、
母親の私小説には批判的のようでした。
例えば、「自画像という他人」の中に、こんな文章が。
「…どう書かれようとも、発表の場も書く力もない者はずっと書かれっぱなしを我慢するしかない。もの書きのの周辺に居る人間にはアクセス権が全く無いのだ。私小説といえどもフィクションであるという前提のもとに成立しているからだろう。どんなに非情の人として描かれていたとしても、フィクションだと言われればなんともいたしかたがないのである…」
「…貶めないのは父と息子だけだ。私は変わらない。相手が悪いので私は不幸になったという思いだけが持続する。この思いが最近父親である朔太郎にまでおよんできたのである。父親や祖母や母親や妹や夫の「犠牲者」であったという物語は、どこまで行っても主人公は悪くないのだ…」
葉子さんにとって夫は憎悪の対象でしかなかったのかもしれないけれども、
朔美さんにとっては優しい父だったみたいでで、
『閉ざされた庭』の夫像はあくまでフィクションだったことが分かりました。
萩原葉子さんの作品に繰り返される被害者としての自分、
祖母、叔母たち、叔父(『蕁麻の家』三部作以外では「親戚」になっている)、
夫、母、妹はどこまでも悪者で、自分は地獄のような日々を送っていた。
拠り所であるべき父は、庇ってくれるどころか、苦しみに気付いてもくれない…
知能障害の妹と、自分たちを捨て恋愛に走った母を引き取ったまでは立派ですが、
作家となってからは、執筆に集中するため、母と妹を中学生の息子に任せ、
一人暮らしを始め、死の直前まで一人暮らしを通したのでした。
生活の糧の為に書かなければならなかったとしても、
それ以上に、復讐するために書く作業に没頭したかったように感じました。
息子の入学式も、卒業式も、運動会も、遠足も、PTAも、
東京版画ビエンナーレ受賞の表彰式にも行かなかった。興味がなかったから。
と書いてありました。
萩原葉子さんの母は、朔美さんにとっては優しい祖母で、
知能障害があったと書かれている妹は、
朔美さんに本を読んでくれたり、面倒をよくみてくれた叔母さんでした。
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