『輪廻の暦』
萩原葉子さんの自伝小説の三冊目『輪廻の暦』を読みました。
離婚が成立した嫩(ふたば)は、一人息子と、施設に入れられていた知能障害の妹、
また自分達を捨てた母を捜して引き取り、4人の生活をスタートさせる一方で、
岸上太郎(山岸外史?)の勧めで、同人誌「若い花」(「青い花」?)に、
父の思い出を書きE賞((日本エッセイスト賞?))を受賞して文筆家になりますが、
母の我が儘と認知症に苦しめられます。
『蕁麻の家』は一人称で書かれているのに客観的でしたが、
『閉ざされた庭』と『輪廻の暦』は、一人称では無いにも関わらず、
日記のような書き方で、同じ人が書いたとは思えませんでした。
まるで、30数年前に『婦人公論』の定期購読をやめた理由である、
「読者投稿」のように通俗的で、期待外れでした。
『蕁麻の家』については、
「これだけは書かないと死ねない。遺言のつもりで書いた」とありました。
その気持ちは理解出来ますが、
『蕁麻の家』だけに留めておけば良かったのに、と思わずにはいられません。
たとえ事実だったとしても、反論したくても出来ない故人のことを、
ここまで酷く書くのは如何なものでしょう?
もし、故人の関係者が反論したとしても、
「これはフィクション名前も違う」と言うのでしょうが、
なんだか愚痴を繰り返すタイプに思えて、いささかウンザリしてしまいました。
「過去の栄光や武勇伝を自慢したがる男」、
「悲劇のヒロインぶりを言いたい女」…どちらも頂けません。
また些細なことですが、
複数の編集者によって編集会議が開かれ、句読点さえチェックされるそうなのに、
結婚して最初に暮らした「木馬館」の部屋が、
『閉ざされた庭』では「六畳一間」、『輪廻の暦』では「四畳半一間だった」…
あくまで私小説なので、事実と違っていても構わないにしても、
統一されていてこそ、真実味も説得力もあるというものでしょう。
文中多くの作家たちの名前が登場します。
例えば、三善琢治(三好達治)、室尾燦星(室生犀星)、早乙女一郎(佐藤惣之助)、
岸上太郎(山岸外史)、森舞子(森茉莉)、上野千代(宇野千代)等々、
これも亡き父(萩原朔太郎)の恩恵でしょうか…
他に、森巌(森鴎外)、芥田川(芥川龍之介)、太宰修(太宰治)、
佐野稲子(佐多稲子)、寺尾修(寺山修司)などの名前も…。
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