『恋の蛍』…(2)
先日、読み終えました。
あとがきで作者が述べていたように、
本当の主人公は彼女の父、山崎晴弘さんのように感じました。
(父の哀れさに、「鬼の目にも涙」ティッシュが必要でした。)
晴弘さんが34歳の大正2年(1913)に、
日本初の政府認可の「お茶の水美容洋裁学校」を創設、
多い年で、年間800名の生徒を修了させ、住み込みの内弟子は80名以上…
しかし関東大震災(1923)で、その校舎も、住居も、美容院も焼失、
舶来ミシン、ドイツ製のハサミ、特注のつげの櫛、金糸銀糸で刺繍した婚礼衣装、
彼が執筆した教科書などを焼失する…
昭和2年(1927)、巨額の資金を投じ、地上2階地下2階の鉄筋校舎を再建するが、
頑強ゆえに軍部の目に留まり、昭和15年(1940)、政府に接収され、
終戦を迎えても戻ることはなかった。
(この建物は、病院として平成まで残っていたそうです。)
昭和16年(1941)、全国に巣立っていった元教え子たちの援助により、
木造校舎を再建するが、昭和20年(1945)の東京大空襲で、
校舎、住居、経営する美容院「オリンピア」など、すべて失う。
その上、GHQによって、軍国主義指導者と見なされ、
公職追放の身となってしまう。
しかも、晴弘・信子夫妻の3男2女のうち、長女・歌子は3歳で病死し、
中央大学を卒業した長男・武士(たけし)は、家業を嫌って離れて行き、
次男・年一(としいち)は、太宰治と同じ、旧制弘前高等学校を卒業し、
東京帝大の受験勉強中、髄膜炎で急死。
三男・輝三雄(きさお)は、
明治大学卒業後、入隊し戦病死、年一と同じ髄膜炎だった。
後継者として期待した次女・富栄は、10日間の結婚生活の後、未亡人となり、
美容学校再建のために、朝から深夜まで身を粉にして働き、
爪に火をともすようにして蓄えた10数万円(現在の千数百万円)を、
太宰と出逢ったばかりに、1年足らずで使い果たした挙げ句、
入水の道連れにされてしまった…
(太宰自身の飲食代や、出版関係者などの接待費、太田静子さんへの送金など)
そして、待っていたのは果てしない誹謗中傷…
もし、大好きだった次兄が亡くならなかったなら、
もし、戦争がなかったなら、
もし、夫・修一が戦死しなかったなら、
山崎富栄さんは、太宰治と出会うこともなかったでしょうし、
山野愛子さんに勝るとも劣らない美容家になっていたかもしれません。
戦争のために、財産も、名誉も、子供達も失った晴弘・信子夫妻…
自ら死を選んだ二人は、幸せだったかもしれないけれど、
残された人間は無念です。
美知子夫人も…
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