« 枕…(2) | トップページ | 「とれるねん」から「耳ねんボー」 »

『玉川上水情死行 太宰治の死につきそった女』

20091115
『玉川上水情死行 太宰治の死につきそった女』 梶原悌子/著 作品社

長篠康一郎さんの『太宰治文学アルバム 女性篇』には、
他では見られないような写真が、たくさん掲載されていましたが、
中でも多かったのが、山崎富栄さんに関するものでした。

そこにあった写真の彼女は、それまで抱いていたイメージとは違って、
柔和で優しそうで、生き生きとしたとても綺麗な女性でした。

日本で最初の、美容学校創立者の令嬢で、
美容師としても洋裁師としても、技術センスともに群を抜いていて、
しかも英語が堪能で、ロシア語とフランス語も習っていて、
聖書と演劇の勉強もされていたそうです。

知性的で明るく前向き、誰にも気さくに接し、面倒見が良く優しい、
動作は機敏で、骨惜しみしないタイプだったとか…
彼女は、時代の先端を行くセレブのキャリアウーマンだったのです。

それなのに、なぜ、太宰を殺したとか、太宰を道連れにしたとか言われ、
悪女、魔女といったレッテルを貼られてしまったのか…

『玉川上水情死行~太宰治の死につきそった女~』(2002)
この本の存在を知った時、是非読みたいと思いました。

著者の梶原悌子さんは、山崎富栄さんより10歳年下で、
生前の彼女をよく知る著者が、文士たちの嘘を暴いてくれました。

美知子夫人が、毎日新聞社の取材に対し、
「山崎さんとの関係は、深いものとは思っていませんが、
今度の家出も、山崎さんから積極的に働きかけたものと思います」

と語ったことは、妻なのだから仕方ないし、当然とも思えますが…。
(実際、そう信じていたかどうかは分かりませんが~)

それにしても…
文士たちだけでなく、出版関係もこぞって、明らかに事実に反することを、
よくもこれだけ書けたものだと呆れ果ててしまいました。
被害者と言ってもいいくらいなのに…
まさに、「死人に口なし」です。

何のために?
理由の一つには、著作権を持つ美知子夫人への打算(配慮と言うより)
があったように思えますが…

田中英光は当然ですが、
太宰治が誰よりも信頼し敬愛していた豊島輿志雄のように、
「富栄さんは立派な女でした」と言って、
「太宰の死への旅立ちに最後まで付き添ってくてた」
(太宰の葬儀で)
とねぎらいを述べた人もいましたし、
捜索や検分に立ち会った野原一夫山岸外史などは他殺説を否定しました。

太宰にしても酷すぎます。
真実の愛は誰にあったのでしょう?
太田静子さんについては、利用したとしか思えませんでしたが、
他の女性に対しても、利用しただけじゃないの…?

太宰の飲食代、その他、
度々太田静子から送られてくる養育費の催促の手紙にも、
山崎富栄さんが工面し、彼女の蓄えは無くなってしまった…

「僕のために苦労することを、嬉しいと思ってくれよ」
「…ごめんね。あれ
(治子と名付けたこと)は間違いだったよ。
斜陽の子なんだから、陽子でもよかったんだね…」
「逢はない、誓ふ、ゲンマン、一生、逢はない」と誓い、
斜陽の子は愛のない子だともいい、
「これっぽちも
(と、小指の先を示して)愛情がないんだよ」と
美知子夫人を大変恐れていて、
「10年前に君と知り合っていれば良かった。」
「君と結婚する男は幸せだ」

などと言ったことは、本心からだったのでしょうか…?

↓文士たちの書いた嘘の一部。(抜粋)

亀井勝一郎『罪と死』の中で、
「[…]用意周到な計画をもつ女の虚栄心ほど恐るべきものはない。
人は愛する女とともに死んだと言います。
しかし憎むべき女とともに死ぬ場合だってあるのです。
己の意に反して死なざるをえぬようなこともあると思います
。自殺という形をとった微妙な他殺もあります。」

と書いた。

井伏鱒二は、遺体いの検視に立ち会い、
太宰の首に他殺の跡がなかったのを自分で確認していながら、
『をんなごころ』
「[…]ある一人の刑事が、かう云つたさうである。
[…]検視の結果によると、太宰氏の咽喉
(のど)首に紐か縄で絞められた
跡がついてゐた。無理心中であると認められた。
[…]そんなやうな意味のことを、その刑事が話したさうである。
[…]遺骸が見つかつたとき、太宰が口のなかに荒縄を含まされたゐたと
いふ噂も…」

と人からの伝言の形をとって富栄を殺人者に仕立てた。
また、
「太宰が「ちょっと、うちに行つて来る。」と云うと、
「あたし、いつでも青酸加里、持つてますよ。」
といふ脅し文句を、女は太宰に浴びせかける。
小心な太宰は、たちまちすくんでしまふ。」

と書いた。

亀井勝一郎も、井伏と一緒に検視に立ち会って太宰の首を確認した
一人だったが、『罪と道化と』のなかで再び次のように書いた。
「[…]直接の死因は、女性が彼の首にひもをまきつけ、
無理に玉川上水にひきずりこんだのである。」

村松梢風『日本悲恋物語』の中で、
「[…]太宰の死体には、首を絞めて殺した荒ナワが巻き付けたまま
になっていて、ナワのあまりを口の中へ押し込んであった。」

と現場を見たような表現で嘘を書いた。

三枝康高は、『太宰とその生涯』で、
「[…]三鷹署はあえて発表はさし控えたが、太宰の首筋を細紐でしめた
他殺のあとから、彼の死は富栄による他殺であると認定したのである。」

ろ悪意から出た単なる憶測を警察の認定事実と断定した。

臼井吉見は、
「仲間の女とふたりで共同生活をしていたのだが、
太宰は明らかに別の女のほうが好きだった。
[…]太宰なりの生活の秩序が破壊されたのは、その仕事部屋へ、
サッチャン
(富栄のこと)がはいりこんできてからのことだ。」
と事実と違うまったくの出まかせ話を、『太宰の情死』に発表した。

臼井吉見は、直接富栄と接触した人物なのに、
『人間失格』
に出てくる「六十に近い赤毛の醜い女中」が富栄のことであるとして、
「サッチャンは、知能も低く、これという魅力もない女だった。」と発表した。

伊場春部は、「長身で岩乗(がんじょう)そうな体格」と評し、
檀一雄は座談会で、「太宰の関係で、きれいな人、知らないな。」
と語った。

~『玉川上水情死行 太宰治の死につきそった女』より抜粋~

|

« 枕…(2) | トップページ | 「とれるねん」から「耳ねんボー」 »

* 本」カテゴリの記事

* 太宰治」カテゴリの記事