『アンナプルナ 女の戦い7577m』
『アンナプルナ 女の戦い7577m』は、
1970年5月19日、田部井淳子、平川宏子の両隊員と2名のシェルパが、
アンナプルナⅢ峰(7555m)に登頂成功した時の記録です。
(田部井さんのHP、その他では7555mですが、この本では7577mに…?)
この本は、記録、写真、イラスト、日記、家族友人に宛てた手紙、その他、
全てが隊員(女子登攀クラブ)によるものですが、中には、タイトル通り、
何もここまで書かなくても…と思えるほど赤裸々に綴られていました。
そもそも、なぜ「アンナプルナⅢ峰」だったかと言えば、
目標はエベレスト、でもその前に、「ヒマラヤの7000メートル級の山を」、
ということでした。
「三人寄れば山岳会」と言われたほど、当時、多くの山岳会があったそうですが、
どこの山岳会でも、厳冬期の登攀までやる女性は少なく、
体格、体力、筋力に劣る女性が男性の登山隊に参加しても、
決してアタッカーにはなれないわけで、
女性が登頂するには、女性だけの隊を組む必要があり、
そのため、寄り合い所帯と成らざるを得ないのです。
「女性だけでヒマラヤへ行きたい……」
1969年、その言葉だけで、8つの山岳会から16人が集まり、
その日から、し烈な女の戦いが繰り広げられることに…
度重なるミーティング、トレーニング山行、登山申請、隊長の選出、
隊員の決定、役割の決定、資金調達、先発隊の出発、装備等の調達、
個人負担金と休暇の捻出、梱包作業…
漠然としか想像できなかった、それらの苦労と言ったら…
女性だけの登山隊がヒマラヤを目指すということが、いかに大変で、
資金調達にしても、男性の登山隊とは違い、スポンサーが見つからない。
「女だてらに」「女は家庭を守れ」「女で成功するはずがない」などと言われ、
結果的に、個人負担金は増えていく…
そして、約1年後の1970年2月14日、
「アンナプルナ日本女子登山隊」のメンバー9人(内、ドクター1人)が決定。
(隊長・宮崎(後の久野)英子(36歳)、副隊長・田部井淳子(30歳))
本当の戦いはBCに着いてから…でもその相手は、氷壁ではなく人間…
登頂成功の陰には、凄まじいまでもの女たちの戦いがあって、
それは帰国後までも続いたのでした。
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