健脚でもないのに、後立山連邦や赤石山脈、奥秩父、天城などの山々を
歩いたりしましたが、最も好きだったのは北八ヶ岳でした。
北八ツは、登山と言うにはあまりに優しく、彷徨という言葉が相応しいような、
静寂に包まれた深い原生林の森でした。
そこは、その名も可憐な雨池、ミドリ池、白駒池、と言った神秘的な湖が点在し、
瞑想にふけるには打って付けな場所でした。
「高見石小屋」と同じ位忘れられないのが「黒百合ヒュッテ」…
赤岳に近く、いつも山男たちで、ごった返していました。
ある秋、紅く変わった落ち葉を踏み締めながら訪れた時のこと、
平日だったため、宿泊者は、私達と、二人連れの男子学生の4人だけでした。
まるで、遠い田舎の親戚の家にいるかの様な心地良さ…
ヒュッテのおじさんは、
「今夜飲んで寝ると、明日の朝は雪になるよ…」と言って、
山からの恵みで造ったという何種類かの果実酒を勧めてくれました。
私は、ほんの舐める程度だけ味わいながらも、
決して饒舌ではないながら、おじさんの山の話に酔いしれたのでした。
明くる朝、おじさんは、それぞれの部屋に
「子供たち~、雪が降ってるよ~」と起こしに来てくれました。
“えっ、うそでしょっ!”でも本当でした…
雪の降らない地方に生まれ育った私は、雪には強い憧れがあって、
幼い頃から「雪が降ってるよ~」に騙されて飛び起きたものでした…
紅葉と雪景色が同時に見ることができた
下りの眺めの素晴らしかったことといったら…
次に黒百合ヒュッテに立ち寄った時は、宿泊客で満員の本来の姿でしたが、
忙しそうに働いていたスタッフの中に、会いたいと思っていたおじさんの顔はなく、
とても残念に感じたのですが…
それから20年以上経った頃、新聞の書評に、
『山小屋物語 北八ヶ岳 黒百合ヒュッテ』があるのを偶然目に…
著者は米川正利さん…
黒百合ヒュッテの主が米川正利さんと言うことは知っていたので、
「これは読むしかないでしょ!」と、
詳しく調べることもなく注文したまではよかったのですが、
届いた本を見て驚いたことと言ったら…
裏表紙には、丸顔の見ず知らずの男性が笑っていたのですから。
本当に狐につままれたようでした。
私達が米川さんと思い込んでいた人は、遠縁の井出重夫さんだったのです。
でも、本に因れば、私達だけでなく、
井出さんのことを、山小屋の主と信じ込んでいた人は多かったとのこと。
米川正利さんは昭和17年生まれ、井出さんは17歳年上と書かれてあったので、
現在84歳くらい…お元気でしょうか?
何物にも代え難い素晴らしい思い出のある私は幸せです。
ですが、青春の日々を共にした人と、思い出話しが出来ないことは、
とても悲しいことです。
その人は、決して会うことの出来ない所へ、旅立ってしまったのですから…
『山小屋物語 北八ヶ岳 黒百合ヒュッテ』 米川正利/著 山と溪谷社
『北八ッ彷徨 随想八ヶ岳』山口耀久/著 アルプ選書 創文社
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