* 本

『早春物語』(赤川次郎・著)

20141106
「早春物語」
(赤川次郎 角川文庫)

「健忘症」が気になり、図書館から借りてきて読みましたが、
…今のところ、さほど深刻でもなさそうなので一安心。

映画もドラマも原作とは違う場合が多いです。
「早春物語」も共通点は殆どありませんが、
ミステリータッチの原作の方が面白いと思いました。

(ネタバレ↓)
17歳の「沖野瞳」は私立高校の陸上部のエース、
早合点から「梶川真治」に近付き、姓を明かさないまま密会を重ねた挙げ句、
第三者を通して手切れ金を渡されてしまうような間柄になり、
とんでもない結末を迎えることになります。

「梶川真治」は44歳、東大卒のやり手商社マン(常務)で、
大柄で胸板が厚く、足も西洋人の血でも入っていそうに長い「いい男」、
妻と三人の息子がいます。

映画では、瞳の母親は4年前に病死し、一人っ子でしたが、
原作では、専業主婦の母も、OL一年生の姉も必要不可欠な人物、
父は札幌に単身赴任中で、訳有り…。

また、映画では、春休み期間中の「淡い恋」でしたが、
原作では新学期がら二学期頃までの出来事で、
映画のような挑発的な台詞も、露骨な表現もありません。
(プロローグを最後に読んだ方が面白いような気がします。)

原作通り映画化した方が面白かったように思いましたが、
アイドルには相応しくない内容だったのかもしれません。

「不倫は男女同罪」という持論を曲げない人もいますが、
中年男性と10代の女の子の場合、大人の方が悪い。
…と私は思います。

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『すらすら読める枕草子』…2

『すらすら読める枕草子』(山口仲美・著 講談社)を読んでいて、
ある箇所で目が止まりました。(P150)

私も大好きな「にくきもの」には、「蚊」についても書かれていますが、
著者によれば、「蚊の細声にわびしげに名のりて」とあることや、
平安時代の『金光明最勝王経音義』に、蚊について、
加阿(かあと長く引いて発音していたと記されていることから、
平安時代の人には、蚊の羽音が「かー」と聞こえていたというのです。

同じように、ウグイスも「ホーホケキョ」ではなく、「うーぐひす」、
いかなれば 春くるからに うぐひすの 己が名をば 人に告ぐらむ
                          (『承暦二年内裏歌合』)

ホトトギスも、「特許許可局」や「テッペンカケタ」ではなく、「ほととぎす」…
(あかとき)に 名のり鳴くなる ほととぎす いやめづらしく 思ほゆるかも
                                      
(『万葉集』巻一八)

犬の鳴き声は、日本では「ワンワン」ですが、
アメリカ人の耳には「バウワウ」と聞いたことがあります。
同じ筈なのに、刷り込みによって違うように聞こえてしまうことが面白いです。

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『すらすら読める枕草子』  

さっそく『すらすら読める枕草子』を借りてきました。

枕草子は高校生の頃から好きでしたが、山口仲美さんの現代語訳は、
「もう息も詰まるほど感動的」「これまた言いあらわしようもないほどステキ」、
など、砕けた表現、それが、まるで辛辣なキャリアウーマンの独り言のようで、
宇田川満代さん(「花子とアン」)が浮かび、笑ってしまいました。
(山田真歩さんは「100分de名著」では清少納言に扮しています。)

「春といったら…?」、
私なら「桜」「新一年生」といった陳腐な言葉しか出ませんが、
「春といったら、なんたって夜明けよ!」…清少納言の感性は凄いですね。

通い婚(一夫多妻)の時代、逢瀬の直後、帰宅した男性は「後朝の文」を出し、
女性達は、男性の色彩感覚や、薫き染めた香の匂いに惹かれる…

優雅といえば優雅ですが、女性はただ待つのみ、
貴族社会の男性だけが、自由を謳歌していただけようで腹立たしい限り、
きっと特権階級では、最近までこんな感じだったのでしょうね。

(少々逸れますが、明治天皇には15人の子供がいたとのことですが、
全員、側室との子、皇后との間に子供は誕生していませんでした。)

何れにしても、もし私が千年以上も昔に生まれていたとしたら、きっと下層階級、
文字の存在さえ知らなかったことでしょう。

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20141007
『すらすら読める枕草子』 山口仲美・著 講談社
  (約40章段が取り上げられています)
目次
Ⅰ 男と女のエチケット
  1 こういう男はかっこいい
  2 ダメな男
  3 こういう女はステキ
  4 こういう女は見苦しい
  5 男と女はこうありたい
  6 こういう男と女はみっともない
Ⅱ 人としてのマナー
  1 こういう人は許せない
  2 こういう人はいいわね
  3 失礼な言葉遣いをしないで
  4 まあ、許容範囲ね
Ⅲ 感じる心
  1 なんてステキな光景なの!
  2 もう、がっかりよ
  3 まあ、うれしい
  4 ああ、じれったい
  5 ドキッとしちゃう

ⅡとⅢに共感しました。

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「花子とアン」と「アンのゆりかご」

修和女学校のブラックバーン校長のモデルが、
実在した東洋英和女学校のブラックモア校長(1942年没)ということは確かのようですが、
「アンのゆりかご」を読んでいた時に、
“もしかしたらこの人があの人のモデルかも?”と思うことがありました。

例えば、スコット先生はミス・クレーグ、寮母の茂木のり子先生は寮母の加茂令子、
英語教師の富山タキ先生は小林富子というように…

醍醐亜矢子さんは、名前からダイアナでは、と思いましたが、
「アンのゆりかご」で、はなが給費生として東洋英和女学校に転入した日、
“御髪におリボンを付けないのは、着物に帯を締めないのと同じなんですって。
ミス・クラークが言ってらしたわ。さあこれでいいことよ。”
と、自分のリボンを外し、はなの髪に留めてくれた上級生の奥田千代がいました。
(この言葉は少女時代の醍醐さんの台詞になっていました。)

奥田千代(塩原千代)さんとは、卒業後も親交が続いたようです。

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「アンのゆりかご 村岡花子の生涯」

20140430

テレビに影響されやすい私…

ドラマ「花子とアン」の原案、「アンのゆりかご 村岡花子の生涯」
(村岡恵理/著 新潮文庫)を買ってしまいました。

「花子とアン」がフィクションと知り、借りようとしたのですが、
図書館は予約があまりに多く…
待つのは構いませんが、次に待っている人がいるというのは焦りますから。

興味があったのは、村岡花子さんというより、実はお父さんの方なのです。

男尊女卑の時代に、溺愛する娘の才能を信じ、教育を受けさせたお父さん…

いくら給費生とはいえ、どんな伝で、特権階級の令嬢が学ぶミッションスクールに、
入学させることが出来たのでしょうか…

その疑問はで晴れました。

 学校創設者とキリスト教信仰上繋がりがあった父は、花子の編入学のために奔走。
(略)
 ただし「給費生」として。
 給費生とは、いわゆる奨学生で、まずクリスチャンであることが絶対条件、在学中
は麻布十番にある孤児院の日曜学校での奉仕活動が義務付けられていた。そして、学
費が免除される代わりに、学科の成績が悪ければ即、退校という境遇である。

                          第1章 ミッション・スクールの寄宿舎へ
                                     明治26~36年(1893~1903、誕生~10歳)より

村岡花子さん(本名・村岡はな、旧姓・安中(あんなか))の父・安中逸平(安政6年(1859)生)
駿河(静岡)の茶商で、カナダ・メソジスト派の熱心なクリスチャンでした。

布教で訪れた甲府で、てつ(ドラマではふじ)と出会い結婚、
一家は、はなが5歳の時に上京しました。

(ドラマでは兄がいますが、実際のはなさんは8人姉弟の長子でした。)

ドラマでは「寅さん風」に描かれていたので不思議だったのですが、
実際の安中逸平さんは、クリスチャンで読書家、しかも社会運動家、
当時としては、かなり進歩的な考えの持ち主だったのでしょう。

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翻訳の違い…(4)

「赤毛のアン」第三章…

村岡花子/訳(新潮文庫 1954)
(略)
 こどもはちょっとためらってから、
「あたしをコーデリアと呼んでくださらない?」と熱心に頼んだ。
「コーデリアと呼べだって? それがあんたの名前なのかい?」
「いいえ、あの、あたしの名前ってわけじゃないんですけど、コーデリアと呼ばれたいんです。すばら しく優美な名前なんですもの」
(略)
「あら、大ちがいだわ。そのほうがずっとすてきに見えるのですもの。名前を聞くと、すぐ目の前に、まるで印刷されたみたいに、その名前がうかんでこないこと? あたしはそうだわ。だからAnnはひどく感 じがわるいけれど、Anneのほうはずっと上品に見えるわ。小母さんが、おわりにeの字がついたアンと呼んでくださるなら、コーデリアと呼ばれなくても、がまんするわ」
(略)

中村佐喜子/訳(角川文庫 1957)
(略)
 女の子はちょっとためらった。
「あたし、コーデリアと呼んでほしいの」と、真顔で云った。
「コーデリアだって! それがあんたの名前かね?」
「いーえ。ほんとの名前ではないけど、あたし、とってもコーデリアと呼ばれたいの。こんな上品でいい名前ないわ」
(略)
「そりゃァちがうわ。eのついた方がずっとよく見えるわ。おばさんには人の名前を聞くと、その綴り が印刷されたようにはっきり見えてこない? あたしには見えるのよ。Ann はとてもいや。でも Anne だ とずっとよくなるわよ。おばさんもeのついたアンで呼んでくれるなら、あたしはコーデリアと呼ばれなくても、がまんすることにするわ」
(略)

掛川恭子/訳(講談社文庫 1999)
(略)
 女の子は一瞬ためらったが、すぐ熱心にいった。
「コーデリアって呼んでもらえる?」
「コーデリア! 本当にそういう名前なのかい?」
「いえ、その……本当っていうわけじゃないけど、ぜひコーデリアって呼んでもらいたいの。とっても 上品な名前なんですもの」
(略)
「すごくちがうわ。ずっとすてきに見えるもの。だれかが名前を呼ばれるのを聞いたら、その名前の綴(つづ)りが心に浮かばない? わたしは浮かぶわ。A-n-nじゃつまらないもいいとこだけど、A-n-n-e だ と、ずっと品がよくなるでしょ。eつきのアンで呼んでくれるなら、コーデリアって呼んでもらえなくても我慢するわ」
(略)

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100年後の女の子は、どんな日本語でお話ししてるのかしら…。

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コーデリア

女の子は誰でもそうなのでしょうが、
私も子供の頃、いつも自分の名前が
“○○○だったらいいのにな~”と思っていました。

でも、“変な子”と思われそうで、誰にも言いませんでしたが…

「赤毛のアン」第三章(マリラ・クスバートの驚き)で、
自分が手違いで貰われてきたと知ったアンは、
マリラに名前を聞かれて、
コーデリアと呼んで…”と頼みました。
…もっと小さかった頃は、ゲラルデンと思っていたという…

ここを読んだ時、
“私だけじゃなかった!”と共感し、ますますアンに夢中になりました。

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翻訳の違い…(3)

「赤毛のアン」には多くの名言がありますが、
中でも特に有名なのは、最終章の“曲がり角"ではないかしら…

翻訳の違いを比較してみました。

原文
Anne's horizons had closed in since the night she had sat there after coming home from Queen's; but if the path set before her feet was to be narrow she knew that flowers of quiet happiness would bloom along it. The joy of sincere work and worthy aspiration and congenial friendship were to be hers; nothing could rob her of her birthright of fancy or her ideal world of dreams. And there was always the bend in the road!

"'God's in his heaven, all's right with the world,'" whispered Anne softly. softly.

村岡花子/訳(新潮文庫 1954) 
第三十八章 道の曲がり角
~略~
 アンの地平線はクィーンから帰ってきた夜を境としてせばめられた。しかし道がせばめられたとはいえ、アンは静かな幸福の花が、その道にずっと咲きみだれていることを知っていた。真剣な仕事と、りっぱな抱負と、厚い友情はアンのものだった。何ものもアンが生まれつきもっている空想と、夢の国を奪うことはできないのだった。そして、道にはつねに曲がり角があるのだ。
「神は天にあり、世はすべてよし」(訳注 イギリスの詩人(一八一二 ー 一八八九)の言葉)とアンはそっとささやいた。

中村佐喜子/訳(角川文庫 1957)
第三十八章 道の曲がりかど
~略~
 クィーンから帰った夜から思えば、アンの視界はぐっと閉ざされてしまったのだ。でも自分の足許につづく道が、どんなに狭いにしろ、そこにはきっと、静かな幸福の花が咲くにちがいないと信じた。彼女には、真剣な仕事と、貴い抱負と、頼もしい友情との喜びがあるのだ。何ものも、彼女が理想の世界を夢見る権利をうばうことはできない。行手には常に期待にとんだ曲がりかどがあるのだ!
『神は天にあり、この世はすべてよし』(ブラウニングの「ピッパは行く」より)とアンは静かにつぶやいた。

掛川恭子/訳(講談社文庫 1999)
38 アンの道、決まる
 クィーンからもどってきた夜ここにすわったときとくらべると、アンの地平線はせばめられた。それでも、目の前にのびている道が狭くても、道ぞいに静かな幸せの花が咲き乱れていることを、アンは知っていた。まじめに働く喜び、価値のある志を抱(いだ)く喜び、気の合った友達を持つ喜び――そのどれもが、アンのものになるのだ。アンが生まれながらに持っている想像力や理想の夢の世界は、だれにも奪うことができないのだ。それにこの道にはいつだって、そのむこうになにが隠されているかわからない、あの曲がり角があるのだ!
「神は天にあり、この世はすべてなにごともなし」
 アンはそっとつぶやいた。

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言葉の選択次第で、微妙に印象が変わるところが興味深いです。
村岡さんと中村さんの訳は、時代を感じさせるような格調高い文に、
掛川さんのは現代的で、小学生にも分かりやすいように感じます。

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翻訳の違い…(2)

20140409

うちにある三冊の「赤毛のアン」の第一章、冒頭部分です。

原文
Chapter I - Mrs. Rachel Lynde is Surprised
Mrs. Rachel Lynde lived just where the Avonlea main road dipped down into a little hollow, fringed with alders and ladies' eardrops and traversed by a brook that had its source away back in the woods of the old Cuthbert place;

村岡花子/訳(新潮文庫 1954)
第一章 レイチェル・リンド夫人の驚き
アヴォンリー街道をだらだらと下って行くと小さな窪地に出る。レイチェル・リンド夫人はここに住んでいた。まわりには、榛の木が茂り、ずっと奥のほうのクスバート家の森から流れてくる小川がよこぎっていた。

中村佐喜子/訳(角川文庫 1957)
第一章 レイチェル・リンド夫人の驚き
レイチェル・リンド夫人は、エヴォンリーの街道が、ちょうど小さい窪地へおりるあたりに住んでいた。まわりははんの木やさくらそうなどにかこまれ、奥のカスバァト家の森からくる小川が、そこを流れている。(注 アンダーライン=傍点)

掛川恭子/訳(講談社文庫 1999)
1 レイチェル・リンド、びっくりする
レイチェル・リンドは、アボンリーの村を通る街道が丘を下っていったところにある、小さな窪地(くぼち)に住んでいる。まわりをハンノキやフクシアに囲まれたその小さな窪地を、はるかかなたのカスバート家の森の奥で生まれた小川が横切っている。

中村佐喜子訳は
扉に ――よき星の下に生まれし者は
         精なり、炎なり、露なり。
          ――ブラウニング――

献辞は 父母に捧ぐ

掛川恭子訳にはブラウニングの引用はなく、
献辞は 父と母の思い出に捧げる

村岡花子訳にはどちらもありませんでした。

また「Avonlea」「Cuthbert」を、
村岡花子さんは「アヴォンリー」「クスバート」、
中村佐喜さんは「エヴォンリー」「カスバット」、
掛川恭子さんは「アボンリー」「カスバート」と訳されていました。

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翻訳の違い

「赤毛のアン」は多くの人が翻訳していると思いますが、
掛川恭子訳(講談社文庫)を読んだときは、“うそっ!”と…

今風で読みやすいのですが、昔読んだ村岡花子訳(新潮文庫)や、
中村佐喜子訳(角川文庫)とは雰囲気が全く違うのです。

かつての女の子が虜になった世界が、遙か彼方へ消え去ってしまったようで、
残念というより、時の流れの無情さを痛感し、自分の年齢を思い知らされました。

今は何かと規制があって、差別意識が無くても問題視されてしまう時代、
むしろ昔の方が表現が自由で、言語だけでなく使われる漢字自体も多く、
ルビもありませんでした。

 (村岡花子訳が、ぼろぼろになってしまったため、
 10年前に再度購入しましたが、以前よりフォントサイズが大きくて漢字は減り、
 しかもルビ付きでした。)

聞くところによると、松本侑子訳(集英社)は訳注が多いらしいですが、
私としては、「ストーリーガール」シリーズの文体が好きなので、
もし木村由利子さんが翻訳されているなら読んでみたいです。

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